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通勤手当の課税化は愚策であると指摘したい

政府の「サラリーマン増税」検討に対する批判が続いています。近時は、国の税収が過去最高の70兆円を超える中において、政府税制調査会が増税を検討していることが大きく報じられて います。この政府税制調査会は、サラリーマンの退職金への増税等を中期答申として発表しているのです。

この増税答申は、退職金だけではなく、いわゆる「非課税所得」も対象となっています。会社による社宅の貸与や、食事の支給、従業員割引などの現物給付の他、通勤手当も例示されています。通勤手当は非課税所得の代表例であり、これが課税所得となるのであれば、郊外に位置する住宅価値の低下や、在宅勤務を好む従業員が増加する等、様々な影響が出ることが想定されます。

今回は、この通勤手当への課税について、少し確認していきたいと思います。

 

政府税制調査会の提言

政府税制調査会とは、内閣府の審議会の一つです。内閣総理大臣の諮問に応じて租税制度に関する基本的事項を調査審議することを目的としています。この政府税制調査会が2023年6月30日に「わが国税制の現状と課題ー令和時代の構造変化と税制のあり方ー」という中期答申を発表しています。

まずは、この答申の内容を以下確認してみましょう。

 

(3)非課税所得等

先述のとおり、個人所得課税の課税対象となる「所得金額」は包括的に捉えることが原則ですが、例えば、給与所得者に支給される旅費などの実費弁償としての性格を有するものや、一定の社会保障給付など生活保障的性格を有するもののように、その性質や政策的要請により非課税や免税とされて、課税対象から除かれている所得が存在します。これらの非課税所得等については、それぞれ制度の設けられた趣旨がありますが、本来、所得は漏れなく、包括的に捉えられるべきであることを踏まえ、経済社会の構造変化の中で非課税等とされる意義が薄れてきていると見られるものがある場合には、そのあり方について検討を加えることが必要です。特に、政策的要請により非課税等とされている制度については、長寿命化により、そうした所得がこれまで以上に蓄積していく可能性等に鑑みれば、 他の所得との公平性や中立性の観点から妥当であるかについて、政策的配慮の必要性も踏まえつつ注意深く検討する必要があります。また、所得には、金銭による収入のみならず、現物給付、すなわち物や権利その他の経済的利益による収入も含まれますが、被用者に対する社宅の貸与、食事の支給、従業員割引など、一定の条件を満たす少額の現物給与など一定のものについては、税務執行上追求しないなどの趣旨から課税しない取扱いがされています。

<参考: 主な非課税所得>

  • 給与所得者の旅費や職務の性質上欠くことのできない現物給付などの実費弁償的性格に基づくもの
  • 通勤手当(1ヵ月当たりの合理的な運賃等の額(上限15万円))のように、住宅事情等からみた場合にその全額を課税対象とすることは妥当でないとの政策的配慮に基づくもの
  • 雇用保険上の失業等給付、生活保護給付、遺族基礎年金、遺族厚生年金(遺族自身の厚生年金がある場合は、 遺族厚生年金がそれを上回る部分のみ)、 給付型奨学金などの社会政策的配慮に基づくもの
  • NISA口座内における上場株式等の譲渡益や配当等のように特定の政策目的のための措置として講じられるもの
  • 家具、じゅう器、通勤用の自動車、衣服などの生活に通常必要な動産(貴金属や宝石、書画、骨とうなどは、1個又は1組の価額が30万円以下のもの)に係る譲渡所得などの担脱力の考慮に基づくもの
  • 当座預金の利子など少額不追求の見地によるもの

(出所 政府税制調査会 「令和5年6月わが国税制の現状と課題-令和時代の構造変化と税制のあり方-」)

この中期答申の内容が Yahoo!ニュース等で採り上げられる等により大きな話題となったのです。もし通勤手当が非課税でなくなった場合には、会社が通勤手当を税金相当分まで上乗せして支給しない限り、従業員の手取りが減ってしまうことになりますので、話題になるのは当たり前でしょう。特に通勤手当はほとんどの会社が支給しており、手当を受給している人は、いわゆるサラリーマンのほとんど全てでしょう。ほぼ全ての人にとって関係があるからこそ、ここまで話題になったものと思われます。

では、ここでなぜ通勤手当が非課税所得となっているのか、その理由・歴史も探っておきましょう。

 

通勤手当の位置付け

通勤手当は福利厚生の一種であり、日本のほとんどの企業において(少なくとも)正社員であれば支給されています。そもそも通勤手当は、従業員の自宅から職場(勤務場所)までの通勤にかかる費用を支給する手当です。

この通勤手当の成り立ちについては、政府の資料にあるものが最も的確な説明がなされているものと思われます。

 

我が国の給与制度のなかに通勤手当が取り入れられるようになったのは、戦後のことである。その背景には、住宅事情のひっ迫が特に都会地において顕著で、多くの者が遠距離通勤を余儀なくされるようになり、通勤費が少なからざる負担となったという事情がある。また、昭和30年代以降の経済の高度成長期においては、不足する労働力の誘致のための施策として、この手当が用いられたという面も少なくない。それが定着して、今日においてはいずれの企業においても、欠くことのできない手当と位置づけられるに至っている。

(略) いわゆる生活関連給与といわれる給与種目の多くが戦中戦後のインフレーション期 に発足したのに対して、通勤手当は民間においても昭和30年代初頭頃から一般化するに至り、(略) 通勤手当の普及がこのように民間においても遅れたのは、主としてこの手当の両棲的性格に起因していると思われる。すなわち、少なくとも当初は定期券等の現物支給を中心に、福利厚生の一環として実施されていたのが、通勤費用の値上がり、労働者の募集対策上の必要性等から次第に給与上への措置へと移行したものと考えられる。

(出所 厚生労働省「第111回労働政策審議会雇用均等分科会 資料 NO.2」)

このように通勤手当は、当時の住宅事情によって従業員の多くが遠距離通勤を余儀なくされるようになり通勤費が少なからざる負担となったこと、不足する労働力を集めるための施策として通勤手当が使われたことがきっかけとなり、結果としては制度として定着し、欠くことの出来ない手当となっていることになります。この状況は、現在でもあまり変わりません。東京であれば、都内に住める人は限られています。また、全体的に見れば、少子高齢化による人手不足はこれから強まっていくでしょう。

そして、この通勤手当が非課税所得となっている背景を理解するには、以下の資料が参考となります。

 

1. 通勤手当の性格について

○通勤手当について

・通勤に要する費用を支弁するために支給される手当であり、「労働の対償」として支払われるものとして、労働基準法上の「賃金」の一部として整理されている。

○ 通勤に要する費用

通勤に要する費用は、使用者が支給することは義務付けられておらず、使用者が負担し なければならないという法律はない。(通勤手当の支払いを強制する法律はない。)

(略)

→これまでの通勤に要する費用に関する考え方では、通勤手当の金額が実費弁償的に算 定される場合でも、それは通常使用者が負担すべきものとして整理される出張の旅費等と異なり、あくまでも賃金の一部として整理されている。

(略)

(参考3) 所得税法において通勤手当を賦課対象から外している趣旨

通勤手当については、昭和41年の改正前においても少額な現物給与は強いて追求しな いとする考え方ないしは勤務に伴う実費弁償的な性質を有する物であるとの考え方のもとに、従来から国税庁の取扱通達において一定の部分を課税しないこととされていたので あるが、この取扱いにおいて一定の金額以下の部分を非課税とし、基礎控除の概念を取り入れていることは、免税思想に通ずる少額不追求の考え方に即応していないこと・・・(略) 等の理由から、これを法制化すべきであるとする意見が従来から強かった。

また、昭和31年から国家公務員にも通勤手当が支給されることとなり、一般的に通勤用 定期乗車券ないしはこれの購入代価としての通勤手当の支給が社会慣行化されて給与所 得者の殆どがその支給を受けるようになった。(昭和41年の人事院調査では、全給与所得者のうちの89%が通勤手当の支給を受けている。)これらのことから、昭和41年の税制改正で、給与所得者に対して支給される通勤手当は通勤に要する費用に充てられる実費弁償的な物と考え、一般の通勤者について通常必要と認められる範囲内のものは非課税とすることを所得税法において明定したものである。

(出所 厚生労働省 「第2回 社会保険料 労働保険料の賦課対象となる報酬等の範囲に関 する検討会 資料1」 平成24年9月20日)

このように通勤手当は「労働の対償」として支払われるものとして、 労働基準法上の「賃金」の一部として整理されています。 但し、賃金(所得)であれば、通常は課税されるものですが、通勤手当の性質が会社に出勤するための単なる実費の補てんであり、所得に馴染まないとされ、現時点では非課税とされています。

 

所見

以上のように通勤手当は所得です。但し、実費の補てん、実費弁償的なものとして、非課税扱いとなってきました。

そもそも(当たり前ではありますが)、従業員が勤務場所に徒歩で通うことが出来る住居ではなく、東京都内から離れた場所に住み、通勤してくること自体にも問題はありません。言い方を換えれば、会社側から従業員に対し、住む場所を指定することは許されません。憲法では、「居住・移転の自由」(憲法22条1項)が認められているためです。従業員が「家賃が高いので、生活が出来る郊外に住みたい」と主張した場合には、会社側から拒むことはできません。会社の制度の範囲内であれば、費用が増加しても通勤手当を支給しなければならないのです。

但し、法的には通勤費を企業が支給しなければならない理由はありません。 また、会社によっては通勤手当の上限額を設けている企業もあります。この会社制度自体は違法でも何でもありません。

今後、政府が法改正に動き、通勤手当が課税所得とされた場合には、その課税相当額を補てんして欲しいと会社に要求する従業員は出てくると思われますが、会社にはその要求を受け入れる絶対的な必要性はありません。ここは非常に悩ましいところでしょう。

従業員側にとってみれば、 通勤費用が少なくてすむ会社の近くに住んだ方が、非課税だった時との対比で、金銭的な負担は少なくなります。また在宅勤務の方が「お得」となる可能性があります。

このように、通勤手当を課税すると、土地の価格や在宅勤務の更なる普及という点で大きな影響が出そうです。

これは筆者の私見でしかありませんが、通勤手当の課税化は経済施策としては、愚策でしかありません。コロナ禍において個人が出歩かなくなったことで、消費にどのような影響を与えたかは皆さんの記憶にも新しいでしょう。通勤手当が課税化されたり、定期券が無くなったりした場合には、日本全体で外出する人が減ることになります。それは、経済に大きなマイナスのインパクトを与えるはずです。

通勤手当の非課税見直しは、個人にとってみれば手取りの減少となる可能性が高く、経済政策としては消費全体の落ち込みを誘発する可能性が高いということで、選択肢としては愚策ではないかと筆者は考えています。