銀行員のための教科書

これからの時代に必要な金融知識と考え方を。

給与・賃金のデジタルマネー払いの課題と展望

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「給与のデジタルマネー払いを可能にしてほしい」との規制緩和要望が出ていることが、日経新聞にて報道されました。

非常に面白いアプローチです。

しかし、厚労省はこの規制緩和を簡単には認めない方向のようです。

今回は、なぜ給与・賃金にデジタルマネーでの支払いが認められていないのか、支払いが認められるとすればどのような課題をクリアすべきなのか等について考察します。

 

報道記事

まずは、報道内容をご確認ください。

以下、日経新聞から記事を引用します。

給与 デジタル払い可能?
2018/08/03 日経新聞

 毎月の給与を現金以外で受け取るのはイエスかノーか。急速に普及し始めた「デジタルマネー」で給与を受け取れるようになれば、わざわざ銀行からお金を引き出す必要はない。東京都やベンチャー企業が国家戦略特区でこんな規制緩和を要望したことが波紋を呼んでいる。70年間、労働基準法で「給与は現金」の原則を守ってきた厚生労働省は戸惑いを隠さない。キャッシュレス化の潮流も絡み合い、論争が起きそうだ。
(中略)
 今年3月、東京都が特区の会議に提案したのが議論の始まりだ。
 「ペイロールカード」。東京都の小池百合子知事は耳慣れぬ単語を口にした。米国では2019年に1200万人以上に広まると予想されるこのカードは、銀行口座を通さずに、会社から給与を受け取ることができるカードのことだ。そもそも銀行口座を持たない人の多いアフリカ諸国でも導入が始まっている。
 小池知事が発案したのは、最近急増する外国人労働者への対応がきっかけだ。日本で外国人が銀行口座を開くには、日本に住所があり、期間が1年以上の在留カードなどが必要。人手不足で外国人労働者が増え、厚労省によると、2017年10月時点で127万人に上り、1年前から18%も増えた。「給与振込口座を開けないといった相談が寄せられる」(東京都の担当者)
(中略)
 実際、2015年、あるベンチャー企業が規制緩和を要望したところ、厚労省は「破綻時に資金が全額保全されないケースもある」と一蹴した。金融とITが融合するフィンテックが勃興し始めたタイミングで、銀行を介さずプリペイドカードなどで資金決済ができる「資金移動業者」に直接、賃金を支払えるよう求めたが、壁は厚かった。
(中略)
 「第4次産業革命」の中核はキャッシュレスだ。ビッグデータを活用できれば産業強化にもつながるからだ。給与の受け取り方もその潮流に合わなくなってきている。デジタルマネーは安全性や破綻時の補償の問題、利便性など課題も多いが、技術革新を無視して、キャッシュレス化を阻む時代錯誤な土壌をそのままにして良いのか。金融とITを融合したフィンテック業界には「聖域無き議論が必要」との意見が出始めている。

この給与・賃金の受け取り方については、銀行業に多大な影響を与える可能性もあります。

以下で詳しく見ていくことにしましょう。

 

法規制

なぜ、給与・賃金をデジタルマネーで支払ってはいけないのでしょうか。

給与・賃金は現金での手渡しか預金口座への振込となっています。この前提は疑問を持ったことがない方も多いと思いますが(筆者も業務で関わるまでは疑問を持ちませんでした)、実は法律で規制されています。
該当する法律を目にする機会も少ないでしょうから、以下参考までに掲載します。
 
<労働基準法>
(賃金の支払)
第二十四条 賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。ただし、法令若しくは労働協約に別段の定めがある場合又は厚生労働省令で定める賃金について確実な支払の方法で厚生労働省令で定めるものによる場合においては、通貨以外のもので支払い、また、法令に別段の定めがある場合又は当該事業場の労働者の過半数で組織する労働組合があるときはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がないときは労働者の過半数を代表する者との書面による協定がある場合においては、賃金の一部を控除して支払うことができる。
2 賃金は、毎月一回以上、一定の期日を定めて支払わなければならない。ただし、臨時に支払われる賃金、賞与その他これに準ずるもので厚生労働省令で定める賃金(第八十九条において「臨時の賃金等」という。)については、この限りでない。

 

この法律では、賃金(給与)は「通貨で」「直接労働者に」払われなければなりません。すなわち、賃金・給与の支払いは「通貨=現金」で、「直接=本人に手渡し」が原則なのです。銀行口座への振り込みは、特別に認められた例外です。

このポイントについては、厚労省の解説が詳しいでしょう。

以下、厚労省のホームページから引用します。 

(出典: https://www.check-roudou.mhlw.go.jp/qa/roudousya/chingin/q7.html )

 

(1)通貨払の原則

  • ⅰ)趣旨
    通貨払の原則は、貨幣経済の支配する社会において最も有利な交換手段である通貨による賃金支払を義務付け、これによって、価格が不明瞭で換価にも不便であり、弊害を招くおそれが多い実物給与を禁じたものです。
  • ⅱ)賃金の銀行口座への振込み
    施行規則7の2①では、「使用者は、労働者の同意を得た場合には賃金の支払について当該労働者が指定する銀行その他の金融機関に対する当該労働者の預金又は貯金への振込みによることができる」とされています。
    賃金を口座振り込みにより支払う方法は、次の要件を満たさなければなりません。
    • ①労働者の同意があること
    • ②労働者が指定する本人名義の預金又は貯金の口座に振り込まれること
    • ③振り込まれた賃金の全額が所定の賃金支払日に引き出し得ること
  •   また、平成10年の施行規則改正により設けられた施行規則第7条の2第2項では、証券会社の一定の要件を満たす預り金である証券総合口座への払込みによる賃金の支払も認められることとなりました。
    この同意については、労働者の意思に基づくものである限りその形式は問わないものであり、指定とは、労働者が賃金の振込み対象として銀行その他の金融機関に対する当該労働者本人名義の預貯金口座を指定するとの意味であって、この指定が行われれば同項の同意が特段の事情のない限り得られているものと解されます。なお、振込みとは、振り込まれた賃金の全額が所定の賃金支払日に払い出し得るように行われることを要するものです(昭63.1.1基発第1号)。
  • ⅲ)小切手による賃金の支払
    賃金の小切手払いは、小切手が我が国の現状では必ずしも一般に普及している支払手段とはいい難く、これを受け取った労働者に若干の不便を与えるものであり、さらに、会社の振り出す小切手は不渡となるおそれもあることを考えると、賃金全般について、振出人を特に限定せずに小切手等の交付による支私を認めることは、適当ではないとされています。

 

(2)通貨払の例外-実物給与支払いが許される場合

  • ⅰ)厚生労働省令で定める賃金について確実な支払の方法で厚生労働省令で定めるものによる場合 退職手当については、その額が高額になる場合があり、現金の保管、持ち運びに伴う危険を回避する必要が認められること及び銀行振出し小切手等による支払は確実であること等から、労基法24①ただし書(「厚生労働省令で定める賃金について確実な支払の方法で厚生労働省令で定めるものによる場合」)に基づき、施行規則において、使用者は、労働者の同意を得た場合には、退職手当の支払について、次の方法によることができることとしています(施行規則7の2②)。
  • a 銀行その他の金融機関よって振り出された当該銀行その他の金融機関を支払人とする小切手を当該労働者に交付すること。
    ⇒具体例:金融機関の自己宛小切手
  • b 銀行その他の金融機関が支払保証をした小切手を当該労働者に交付すること。
    ⇒具体例:金融機関の支払保証小切手
  • c 郵便為替を当該労働者に交付すること。
    ⇒具体例:郵便為替
  • 上記の「同意」とは、労働者の意思に基づくものである限りその形式は問わないものであり、また、「その他の金融機関」とは、小切手法ノ適用ニ付銀行卜同視スベキ人又ハ施設ヲ定ムルノ件(昭和8年勅令第329号)により小切手法 (昭和8年法律第57号)の適用につき銀行と同視されるもの(例えば、郵便局、信用金庫、信用協同組合、農業協同組合、労働金庫等)をいう(昭63.1.1基発第1号)。
  • ⅱ)法令 法令には、法律、政令及び省令があります。
  • ⅲ)労働協約 労働協約とは,労働組合法でいう労働協約のみをいい、労働者の過半数を代表する者との協定は含まれません。なお、労働協約の定めによって通貨以外のもので支払うことが許されるのは、その労働協約の適用を受ける労働者に限られます(昭63.3.14 基発第150号・婦発第47号)。

  

この賃金・給与の通貨払いというのは、「現物払い」を禁止したことに主旨があります。

例えば、賃金・給与を自社の製品(例えば、電子レンジ、加工食品、家具等々)で渡されたら、どう思われますでしょうか。

生活必需品を作っている会社の社員であったとしても、自社の製品ばかりでは暮らしていけません。電気・ガス・水道代や、子供の学費は少なくとも日本円で支払わなければならないでしょう。

現物で支給されていると、自社の製品を換金しようにもどこで換金したら良いか分からないでしょうし、いくらで換金してくれるかも需給に左右されるでしょう。

従って、賃金・給与を通貨払いとすることを法律は規制(強制)しているのです。

この通貨払いの例外が、銀行に対する振込です。

銀行の口座への振込は、厳密に言えば「通貨払い」ではありません。

銀行の口座に振り込まれた賃金・給与の「額」は、あくまで預金者が銀行に対して持つ「預金債権」です。

ただし、銀行は「確実に支払う」だろうから通貨払いの例外として良いと法令で決められているのです。

 

今後の規制に対する所見

この賃金・給与の「通貨払いの原則」は、時代遅れと感じる方が大半でしょう。

そして、前述の新聞記事にある通り、預金口座を持てない外国人労働者等にとってはデジタルマネーでの受け取りは選択肢として利便性があるかもしれません。

しかし、厚労省(および労基法)の考え方のベースにあるのは「(日本人の)労働者保護」です。

確かに現行のデジタルマネー(この中には仮想通貨・既存の電子マネーも含まれます)は銀行預金よりは支払いの蓋然性に疑義があります。

基本的には、発行者もしくは仮想通貨の裏付けとなっている事業等への信用・信頼が基になっており、通貨(=日本国)や銀行よりは信用力等が劣るとされているためです。

電子マネーは現行の法律ではある程度の保全が図られています(資金決済法の前払式支払手段として、受入額の1/2を供託等)。

仮想通貨は何の保全もしくは信用力の裏付けもされていません(それが仮想通貨とも言えますが)。

厚労省にとっては、そして日本の有権者の一部にとっては、この観点を否定する訳にはいかないでしょう。

一方で、現金が流通する社会というのは、現金流通コストに加え、外国人労働者を受け入れるインフラ整備(銀行口座、決済手段)に課題がありますが、今後はマネーロンダリング・テロ資金供与防止、税務上の所得等把握が重要な課題とされていくでしょう。

現金ほど匿名性の高い支払手段、価値貯蔵手段はないからです。

労働者保護、外国人労働者等の利便性と、資金の流れの当局把握(マネロン・テロ資金供与防止および税務上の所得把握)とを解決する方策はあるのでしょうか。

仮想通貨・電子マネーは本人確認の厳格化を行うことによりマネロン等の対応をしていくことになりますが、資金決済手段としてはメインストリームになるかは不透明であり、厚労省が労働者保護を盾に簡単には認めないでしょう。

筆者は、この問題を解決するのは最終的に中央銀行発行のデジタル通貨に行き着くのではないかと考えています。(外国人労働者にとっても口座開設の利便性を提供できるような仕組みを整備する必要はあります)

賃金・給与の払い込み口座を押さえていることは、銀行にとっての強みです。この給与振込があるから銀行は個人との接点を持てている割合が高いのです。

銀行口座を通さずに、賃金・給与をデジタルマネーを受け取れる社会が到来した場合には、銀行の強みはさらに無くなります。

中央銀行がデジタル通貨を発行する時代が到来した際に、どのような影響が到来するのか、この賃金・給与の払込み規制がどのようになっていくかも重要な観点となるのです。