銀行員のための教科書

これからの時代に必要な金融知識と考え方を。

給与の銀行口座への振込はいつ始まったのか

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政府が会社員への給与のデジタル払いを解禁する方針であると報じられています。

この「給与のデジタル払い」、すなわちPayPay等の「資金移動業者」を通じて給与を支払う仕組みは、導入されると、給与を受け取る個人にとってメリットとなる可能性があります。資金移動業者を給与受取先に指定すると、ポイントが獲得できるというようなことが想定されます。

給与の支払方法については、法的規制が存在します。

企業が給与の支払いを行う際の原則は、法律的には「現金の手渡し」です。その例外といて銀行口座への給与振込が認められているに過ぎません。

では、給与の銀行口座への振込はいつからスタートしたのでしょうか。

給与のデジタルマネーによる支払解禁が検討されている中、今回は少し昔のことを振り返ってみましょう。

 

法的規制

企業の給与支払い手段は労働基準法で規制され、現時点では、給与振込口座が事実上、独占的な地位を占めています。

労働基準法では、給与は現金(「通貨で」「直接労働者に」)での支払が原則ですが、特別に認められた例外として銀行口座への振込が認められています。銀行は「確実に支払う」だろうから、通貨払いの例外として法令で許容されているのです。

労働基準法

(賃金の支払)
第二十四条 賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。ただし、法令若しくは労働協約に別段の定めがある場合又は厚生労働省令で定める賃金について確実な支払の方法で厚生労働省令で定めるものによる場合においては、通貨以外のもので支払い、また、法令に別段の定めがある場合又は当該事業場の労働者の過半数で組織する労働組合があるときはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がないときは労働者の過半数を代表する者との書面による協定がある場合においては、賃金の一部を控除して支払うことができる。

企業は現金で給与を支払っていた時代もありましたが、現金取扱リスク削減、事務負荷減のため、現在はかなりの企業が給与を銀行口座への振込によって行っています。

確かに、給料日ごとに従業員に紙の袋に札束を入れて一人ひとり渡す、なんてことは非効率極まりないと言えるでしょう。

この銀行口座への給与振込は、実は始まるきっかけがあったとされています。次に、そのきっかけを確認していきましょう。

 

あの事件

東京都府中市で1968年12月に発生した有名な窃盗事件をご存知でしょうか。

一般に「三億円事件」と言われています。

東京芝浦電気(現在の東芝)府中工場従業員に対する賞与約3億円が偽の白バイ隊員に奪われた事件です。

奪われた金額の「2億9430万7500円」は「憎しみの無い」という語呂でも有名です。

日本信託銀行(現在の三菱UFJ信託銀行)の現金輸送車が、府中刑務所横で偽装した白バイ警察官に止められ、「車にダイナマイトが仕掛けられている」と言われたので避難したところ、その警察官が運転席に乗り込んで車ごと走り去ったとされています。

 

現金強奪事件としては当時の最高金額であり、当時の3億円は現在の10億円の価値に相当します。

奪われた金額の大きさ、犯人の手際の良さ、証拠が大量に残っていたにもかかわらず結局犯人が捕まらなかったといった話題性のある事件であり、昭和を代表する未解決事件です(既に時効を迎えています)。

この事件は銀行業界にも大きな影響を与えました。

すなわち、奪われたのは「銀行から取引先へ送られていく途中」の賞与だったからです。

 

給与の銀行口座への振込が始まった理由

1968年当時の給与・賞与は、給料袋での「現金手渡し」が主流でした。

すなわち、各社は銀行から現金を下ろして従業員に配っていたのです。実務的には凄まじいまでの手間だったでしょう。

「現金大国」の現在の日本では、ATMの管理・維持コストや現金輸送、現金の取扱事務の人件費等を考慮すると、金融業界全体で2兆円もの現金取り扱いコストがかかっていると試算されています。しかし、当時はそんなレベルではなかったでしょう。

この現金手渡しという商慣習が、三億円事件が起きた背景でした。常に給料日の前には現金輸送車が走っていることが当然だったからです。

この三億円事件をきっかけに給与振込制度の気運が高まったのです。

国立国会図書館のWebサイトには、この給与振込制度導入のきっかけが三億円事件であったことが説明されています。

○「富士銀行の百年」(富士銀行、昭和55年) p.466~
「給与振込制度の採用進む」の項で、昭和40年代に入って、「給与=現金」という考え方が徐々に変化していったこと、また昭和43年に起きた3億円事件をきっかけに、給与振込制度採用の気運が高まっていったことが説明されている。

○「給与の口座振込制」(ファイナンス、1975年1月号) p.48~
昭和49年の国家公務員の給与の口座振込制の導入について、大蔵省職員が解説した記事。昭和43年の3億円事件を契機として、現金輸送に伴う危険が一般に認識され、口座振込制に対する関心が急速に高まったこと、こうした民間企業における給与振込の普及に伴い、国家公務員についても導入の検討が始まった、という経緯が書かれている。

(出所 国立国会図書館Webサイトhttps://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000059478

 

所見

三億円事件は、日本に給与の銀行口座振込制度を根付かせるきっかけになりました。

そして、この資金の銀行への集中は、結果としてATM網の普及や銀行の資金量増加に寄与し、当時の産業が必要としていた資金供給にも貢献したことになります。

三億円事件は、昭和史に残る有名な事件ですが、意外と金融に影響を与えたことは知られていないのではないでしょうか。

今後、給与のデジタル払いが解禁された際には、令和の三億円事件と呼ばれるような大事件が起きる可能性もあるかもしれません(もちろん、今の銀行口座振込制度もリスクはあるでしょう)。

過去に何があったのかを知ることは、きっと給与のデジタル払いの時代にも役に立つはずです。