銀行員のための教科書

これからの時代に必要な金融知識と考え方を。

日本は日本的モラリズムの国であり、民主主義国家とは少し違うように感じた2021年

f:id:naoto0211:20211231120546j:plain

2021年は皆さんにとってどのような年だったでしょうか。

筆者は、日本の政治・社会に対して非常にモヤモヤしたものを感じた一年でした。

そして、この一年を振り返り、10年前ぐらいに読んだ書籍を思い出しました。

今回は、この書籍をご紹介しながら、日本の民主主義と「モラル」について考えてみたいと思います。

 

自由と民主主義

日本国が「自由と民主主義の国」であることを疑う人は限りなく少ないのではないでしょうか。

国民の内心の多様性を前提として、人々の行動を「ルール」でコントロールするのが「自由と民主主義」です。この考え方は完全に西欧から来ています。

多様性のある社会では、内心のモラル感覚は自由とするしかありません(主義・思想をコントロールすることは難しいということです)。しかし、各人がバラバラに行動することは社会秩序の維持が出来なくなります。そのため、個人の「行動」については、法律というルールで縛ることになりました。個人の行動の自由を縛るのは、あくまで国民の代表(政府・立法府)です。そして、個人の行動の自由を制限するからこそ、民主主義体制というのは、簡単に意思決定ができないようになっています。

まさに、民主主義というのは、基本的に時間をかけて議論ができる平常時に機能するように設計されています。民主主義は、ブレーキと言った方が良いのかもしれません。政治権力による人権の侵害を食い止め、あとで取り返しのつかないような決定に対する歯止めになっているのです。

但し、議論には時間がかかり、意思決定が遅くなります。コロナ禍においては、この遅さが批判を浴びることになりました。また、現代のように物事をスピード感を持って早く決定しなければならない時代においては、民主主義というプロセス自体がもう時代遅れだとされることもあるでしょう。特に日本においては、経済の低迷があり、コロナ前から「強い」リーダーが求められるようになってきているように筆者は感じます。

 

日本と「自由と民主主義」

コロナ禍において、我が国における「自由と民主主義」に疑問を感じるようになってきた読者は存在するのではないでしょうか。

その最たる例が、政府や地方自治体が要請する「自粛」です。

自粛とは、自ら進んで行動や態度を慎むことです。この自粛には、単に何かすることを止める、ということではなく、「他人からの評価を気にして」自分の行いや態度を改めるというニュアンスが含まれています。

この自粛は、外出自粛、営業自粛というような形でコロナ禍において使われています。いずれも政府は法律で禁止をしない代わりに、個人・企業の「モラル」に任せました。

また、西村経済再生担当大臣(当時)が、緊急事態宣言発令を受け、酒類を提供する飲食店が休業要請に応じない場合は、その店舗情報を金融機関に提供する考えを明らかにしたこともありました。これは、法律とは関係ないところで、金融機関から店舗に休業への圧力をかけることを期待しているということでしょう。

民主主義国家においては、政府がどんなにその行為(例えば休業)が必要であると考えたとしても、法と制度の裏付けのない限りにおいてはその政府の行為は「実現できない」というのがルールです。それが民主主義です。本当に必要な行為ならば、政府は国民を説得して、法律を整備すべきなのです。

しかし、コロナ禍における日本の政府や地方自治体は、法に定められた権限を超えて、民間の事業者に自粛(自ら権利を制限する)を要請し、マスコミも政府等の要請を何の違和感もなく報道しました。そして、自粛警察という言葉ができたように、一部の国民は、それを当然だとして、自粛に従わない事業者を攻撃しました。我が国が自由と民主主義の国であるならば、自粛に従わないことは当然の権利なのに、です。

 

日本的モラリズム

自由と民主主義は「多様性と価値の相対性」をベースとしています。

ところが我が国は、多様性を前提としては存在しておらず、様々な考え方があるということも前提としていないように思われます。

すなわち、西欧人がその文化をもとに作った「自由と民主主義」は、日本人には向かない仕組みなのではないだろうか、との疑問があるのです。

日本を支配しているのは、自由と民主主義ではなく、日本的モラリズムであると喝破したのが岡本薫氏です。

岡本氏が執筆した「世間さまが許さない!―「日本的モラリズム」対「自由と民主主義」(著者 岡本薫氏)」という書籍をご存じでしょうか。

この書籍では、日本的モラリズムとは「同質性と共通モラルの絶対性」をベースとしているとしています。

日本的モラリズムの特徴は「なんでもモラルの問題と考える」「世間様の基準がある(共通のモラル感覚)」「自由とルールの無視(モラルの超ルール的正義)」なのです。

この考え方には同意する読者もいらっしゃるのではないかと思います。

日本的モラリズムは、民主主義のシステムで作られたルールを無視し、モラルを優先します。そして、このモラルは自分自身の行動のみならず、他人の行動の評価にまで及ぶのです。

「世間さま」が判断機軸であり、法律を超越したものなのです。

「世間さま」に照らせば、「○○をした芸能人は許せない」「コロナなのに営業する○○店は許せない」等となります。

 

所見

前述の書籍で岡本氏は多様性の社会に必要とされる建設的コミュニケーションを以下と説明しています。

①希望をはっきりと言う(後出しはダメ、相手が察することを期待することもダメ)

②各人の希望の共通部分を特定する(異質な相手は「悪」ではない)

③交渉により共通分を極大化する(相手の妥協を当然視しない)

④共通部分につき約束する(内容を完全・詳細に特定する)

⑤約束は遵守する(自分のモラル感覚を理由に破らない)

この5つのポイントは、もしかすると今の日本に必要なことではないでしょうか。

筆者は、自由と民主主義は完璧だとは思いませんが、やはり他の体制よりはマシだと考えています。

日本的モラリズムは、一億総中流と言われ、インターネットがなく情報が制限されていた時代ならともかく、現在の多様性社会においては、分断を生むだけです。日本において共通のモラルが存在するというのは既に幻想なのです。

コロナ禍は、改めて日本を覆う日本的モラリズムを浮き彫りにしました。

多様性を許容できる社会を確立していくためにも、今一度、自由と民主主義とは何か、日本的モラリズムとは何かを我々は考えるべきなのではないでしょうか。